回顧録

考えごと感じたことひとりごと

回復の記録

前回の記事(とはいっても一番初めの記事)から一年と少し経った。受け入れる準備が整ったようなので記していく。

 

2019年4月、留年期間を経て新たに始まった人間関係や学校生活にバイトに力を入れていた頃。思ったよりも温かく迎えてくれた同学年になった人たちに私は驚いた。"普通に"接してくれる懐の大きさから私の矮小さが浮き彫りになった気がした。

 

「初めて見かけた時、リップの色からコスメ好きだろうなと思ったの。」「実験の時、声をかけたくて無駄に何度もあなたのいる班に行ってた。」「私もアウトローだし…持ちつ持たれつで頑張ろうね。」「私の友達もあなたと仲良くなりたいって言ってるんだ。今度遊ぼうよ。」

 

6月、毎日多くの人と会い、街中を歩いてはすれ違う人の視線に徐々に耐えられなくなった。過食嘔吐が止まらなくなった。低気圧のせいもあったかもしれない。飲み始めたピルのせいもあったかもしれない。少しずつ精神と身体は狂っていった。諦念が常に心の奥底に渦巻き、朝が来るたび始まる1日に茫然とする日々だった。友人と会うのも怖くなっていった。人と会い、何か外見について言われるのがとても苦痛になったらしい。

 

7月、ちょうど長らく交際があった人と縁が切れてしまった。別に恋人ではなかったけれど。髪を短く切った。女らしさと決別するために。

 

記憶がない8月。とにかく人と会えなかった。会うのが怖かった。一度だけ友人たちと食事に行った。孤独を感じること、人を信頼しきれないことをぽつぽつと話した。

 

夏の終わり。履修登録のミスにより、休学することが決まった。いっそ大学を辞めて働かせてほしいと嗚咽と共に言葉を吐き出した。あんなに泣きじゃくったのは子供ぶりだろうか。頼むから学校だけは行って欲しいと同様に泣かれた。世間の足並みからどんどん外れていくのを他人事のように見ていた。感覚がぼやけていく。

 

扶養内におさめるために労働することも激減した。ただ毎日何をする訳でもなく過ごした。起きて、食事をして、些細な家事をして、寝て。たまに働きに出た。

 

過食嘔吐が治らなかった。全てに意味がなくて辛くて虚しくて苦しかった、多分。どんどん醜くなる自分を鏡で見るのが苦痛だった。言葉に、視線に、一層敏感になった。自己憐憫に陥る自分に気づき自我を消したくなった。

 

やがて12月がきた。思考をしなくていいよう働き続けた。食事をする時間も作らなかった、作りたくなかった。睡眠以外の欲を感じたくなかった。自我を意図的になくした。クリスマスに街は賑わい、年末に向けて慌ただしく日々が過ぎていった。消費をする人たちや、ブランドに対して嫌悪感がついてまわった。「消費なんてさまざまなプライスカードを集めているだけだよ。ファッションなんて全てどこかで見たもののコピー&ペーストの繰り返しなんだよ。」

コピー&ペースト

コピー&ペースト

 

色を纏うと心が落ち着かないので、ひたすら無彩色を着続けた。昔天神を1人で歩いていると声をかけてきた人たちは、今となっては私を一瞥するか眼中に入ってないようだった。装飾品の代わりに私は私を救ってくれそうな本を買い漁った。

 

ホリデーにバレンタインにホワイトデーなどイベントが次々とやってくる。働き続けた。自我を殺した。働いていたら何か許されるような気がした。

 

3月、さらに髪を短く切った。諦念も同時に切り落とそうとした。できなかったが。鏡の前には長かった頃よりも幾分か凛々しく強く見える自分がいた。過食と拒食を繰り返しぼろぼろだったけど、ぼろぼろなりに強く生きようという決意だった。

 

4月。だんだんと寒さが和らいでくるころ、桜の咲く夜の公園を仕事後歩いた。前の方を恋人同士と思われる人たちが仲睦まじそうに歩いていた。幸せそうな様子に涙が滲んだ。美しかった。綺麗だった。自分が臆病になって避けてきたものに目の前の2人はしっかり向き合っているのだと、素直に尊敬した。これから自分にはこんな瞬間が訪れることがあるのかと淡い希望を抱きかけたが、うまく想像できなかった。まだ人と会うのは怖かった。

 

その頃、COVID-19が世界中で蔓延した。日本も例外なく。緊急事態宣言が出された。働いていた店は休みになり、家に引き籠った。毎日何をする訳でもない。起きて、食事をして、些細な家事をして、寝る。秋と同じ、ただ生きているだけだった。世間は一変した。隣人が隣人を監視し合うような風潮ができた。同調圧力はこの時期特によく聞く言葉になった。労働が無くなったおかげで人と会わずに済んだ。田舎を毎日歩いた。海をただ眺めたり、山に登り鳥のさえずりをひたすら聴いていた。

 

なんとなく、これでいい、と心の中で自分が言った気がした。このままでも私は生きていてもいい、と。誰かに言ってもらえなくても自分で自分を肯定できるのだと知った。まだ食事はうまくとれない。過食も拒食もしてしまうけど。せっかくつけた筋肉は何処かに行き脂肪が代わりについてしまった身体だけど。皮肉にもコロナのおかげで強制的に休養をとれたことが最後の後押しとなり、回復の準備が整ったようだった。

 

結局、生きる意味は無い。ただ利己的な遺伝子により生かされているだけ。アドラーによれば、しかし、その日その日をそれぞれダンスを踊るように過ごすことが大事なのだそう(嫌われる勇気より)。理由はない、ただ踊らなければいけないから踊る。そういえば村上春樹氏の『ダンスダンスダンス』にもそんなことが書いてあった。「オドルンダヨ、オンガクノツヅクカギリ」

 

大学に入ってからほぼ3年間は楽しいと思ったことは数えるほど。特に記述した期間は苦しくて常に希死念慮がつきまとっていた。例えば、向かってくる電車に一歩踏み出すだけでいい、とか、車に乗っている時にスピードを出し続けたら死ねるだとか、そういった日常の中で考える死。霞を食べて生きていきたいと思っていた。生に対して無関心だった。そこから何がきっかけになったのかはわからない。何が救いになったのかもわからない。でも、ふと思い出す、人との関わり。かけてくれた言葉。私の中に残っている言葉。蓄えた言葉。些細なことだが、たったそれだけでも生きる理由にはなる、なれるなあ。

 

21歳現在の人生観、死生観の記録、緩やかな回復の記録として。