回顧録

考えごと感じたことひとりごと

2024.02.26

最近感じていること。

一緒にいる他者によってさまざまな自分が表出する。他人に合わせて、場面に応じて適した仮面(ペルソナ)をつけかえているのだ。いろんなペルソナがあり、実は本当の自分というものは他者との関係において存在しない。だからこそそのペルソナができるだけ無理せずにいられる、心地よい人と一緒に時間を過ごすようになるんだなーという気づき。

 

先日MBTI診断なるものを受けた。40〜50年ほど前にユングの心理学をもとに考案され、検証を繰り返されてきた診断だ。最近では16personalitiesというサイトと混同されて広まっているが、似て非なるものだ。ユングの心理学では、内向型外向型は皮膚を境界線にした外界と内界どちらが自分の世界なのかという観点で見ている。その他にもたくさんのユングの思想を勉強した後に、演習を繰り返して自分の心の指向がどちらなのか探っていった。

結果は決められるものではなく、自分でベストフィットタイプを決めるものだった。決まらない人は日々の生活で探ってみてね、と言う形で終わった。

 

私の特性はどんなものか。それとうまく付き合うためにはどうしたらよいか。他人とコミュニケーションする上で、どういう伝え方が良いか。全てのものごとにおいて、知らないことには始まらない。

 

私はよく想像で物を言ってしまう。正確性よりも。だけど、憶測で語れるものなんてその程度で、あとで恥をかくことも多い。沈黙が最適解であることは多い。

 

知るべきことはたくさんある。この世界には私の知らないことばかりで、全てを知ろうとするには私の一生ではとてもとても足りない。もっと生きないと。毎日を生きなければ。

2024.01.06

恋とか、愛だとか。

 

恋とは一瞬で燃え盛り、いつかは冷めゆくもの。では愛とは?愛とは持続可能なものであり、確固たる意思である。また、恋人や夫婦、パートナーシップを結んでいるもの以外にも抱くことができるものだと思う。友人関係にも愛と呼べるものがあるだろう。そして、恋人とも友人とも言えないようなまた名前のないつながりにも愛はあるんじゃないか。

 

私は人との関係性に名前をつけたがる節がある。白黒つけたがるのだ。でも、名前がつかない関係だってあるだろう。このグレーゾーンを楽しみたい。その人のことを知りながら、思いやりながら、距離をはかっていく。人との関係って、そういうのが大事なんじゃないか。あくまで、自分の意思はそのままで、他人を受容していく。

 

恋って、宝箱の中の飴玉だ。たまに思い出して、口に含んで甘さを味わう。甘美な思い出にとろけて、そして、懐かしんで宝箱を閉じる。そんなきらきらとした結晶は、私を生かすことはできないけど、彩ることはできる。

 

一方、愛って?愛って、私の生きていく上で必要なものだ。今まで、恋人や友人たち、そしてそのくくりにはいないあの人たちが私を思って送ってくれた言葉に幾度となく生かされてきた。会った回数はたとえ少なくとも、あの時のあの人のあの在り方が私を生かしてくれたと思える瞬間がいくつもある。生きる価値がある人生なんだと教えてくれた。ああ、私もそれを送ることのできる人でありたい。愛とは、その人を受容することだと今は結論づけている。

 

付き合う、とは。恋人になるとは。その人のことをもっと知りたい、そして、他の人にはとられたくないというある程度の独占欲がある時に、初めてその人と付き合いたいと思うのではないか。愛情が欲しいと思って付き合うのではない。私がその人のことを知りたくて、そばにいたくて付き合いたいと思うのだ。確かに付き合うと、甘やかな時間を過ごすことができるだろう。でも、それを長続きさせるには愛が必要だ。一瞬の甘美な時間のために、付き合うことはできても、その人自身を愛する気概がないと、あっという間に冷えていってしまう。そして、これは一方だけが思っていても成り立たないと考えている。お互いが同じように思いやり、言葉を交わすことで可能になるのではないか。となると、恋人となると、ただの恋心だけで成立するものではなくなる。

 

私が前にした恋愛は、かなり自分を削っていた。自分が何を好きで、何に感動し、何を美しいと思うのか、見失いかけていた。趣味という趣味はなくなりかけていた。本当に大好きな人とずっと一緒にいられる幸せはあった。でも大好きな人の幸せを心から願っているわけではなかったのだと思う。私のことを愛してくれるその人のことが好きだった。1番ダメだったのは、私がその人に融合しかけていたことだ。

 

次にする恋愛では、私はあくまで私自身でいたい。私という人生と、恋人の人生が、たまたま重なり合って時間を大切に過ごすことができたらいい。くだらない、束縛や嫉妬なんて捨てて。巷の基準なんて放っておいて、私とあなたの関係性を作っていきたい。その人がその人であることを心から祝福できたらいい。これが、私なりの恋人に向けられる愛だ。恋人がどれだけ私のことを愛してくれるかではない。愛されたいのではない。自分よ、忘れないように。

 

まだ、わからないことがたくさんだ。エーリッヒフロムの『愛するということ』をまた読むことにしよう。

2023.12.20

自身の恋愛感情について考えたメモ。

 

私はこれまで異性の友人が少なく、大体は複数人で仲良いものだった。友人であったとしても、2人で会うとなると違うなとなる人が多く、そもそもそんな機会すら作らなかった。そのため、2人で会っても気まずくならない、自然体でいられることが恋人の条件となっていた。

 

しかし、2人で会っても違和感のない異性の友人がここ一年でできた。俗に言う男女の友情が成立したのだ。これは、私に恋人ができて、男性との距離感に慣れてきたからだとも思う。過剰に緊張することもなく、自然体でいられる。

 

では、この友人に対し恋愛感情を抱くことはあるのだろうか?そう考えたが、天地がひっくり返っても無いという結論に至った。なぜだろうか。自然体でいられてとても楽…なのだが、どこか無意識で女として見られないように行動していることに気づいた。

 

自分の中の女として見られないようにする、のボーダーラインが緩くなっているため、2人で会うことには抵抗が無くなってきただけであり、根本的な部分は一緒であった。彼の前では女らしさを見せたくないと思っている自分が常にいる。気づいたらその人のことばかり考えたり、特別会いたいと思ったりすることもない。恋心を抱いていないのだから、そういうものだろうが。たとえ、彼から恋愛的な好意を寄せられたとて、そうなることはないだろう。

 

では、もう一つのパターンとして、長年親交を深めてきた人から好意を寄せられたとしよう。その時に私自身も好意を抱けるとすると、先ほどとの例と比べて何の違いがあるのだろうか。もともと異性としての魅力があったが、タイミングがずれていたたために付き合うことがなかったのだろうか。それでは男女の友情はそこでは通用しなくなってしまう。これに対しては、魅力の尺度が経験と共に変わること、同時に相手も変化することがキーとなりそうだ。明確な基準はないが、ここでも、その人に異性として認識してもらいたいか、無意識にでもバリアを張っていないかが自分の中で基準となるように感じる。

 

私にとって恋愛感情とは人間関係から地続きになっており、その先に抱けるものだと感じる。特に実際に付き合うかどうかを考える場合には、だ。そうじゃない人もいるのだろうか。どちらが多数派なのだろうか…。

 

人と付き合うこともまだだったその昔、好意がバレないように好きな人にはよそよそしくなっていた。好きな人の前だからこそ、何を話してもいいかわからないし、動きもぎこちなくなってしまう。それは私が人の好意を受け止める器量が無かったからだ。こんな私と付き合って何が楽しいのか?与えられるものがあるのか?だからこそ、秘めておくべきだと思っていた。その頃から比べると、とても成長したように感じる。いささか傲慢すぎる方向に成長したようにも感じるが…。この頃の謙虚さは忘れないでいたい。

 

余談…他人のことはわからないが、一般で言われる人たらしの人は、異性として見られないようにするボーダーラインがあまり無い(もしくは無い)のではないかと推測した。いわゆる、男女を男女とも意識していなかったり、距離感が近かったりする人だろうか。巷で言われていることがやっと腹落ちした気がする。

2023.11.06

病気の方たちと関わることが多い半年だった。病気とは予期してなるものではない。そして、いつまでも健康で元気に過ごせるわけではない。喜ばしいことか、憎むべきことか、時間は誰にとっても等しく、有限である。

 

もっと人と対話をし、理解をし、その心に触れたい。何を感じて生きているのか知りたい。

 

もっと聞く力を蓄えたい。その人が意識していなかった、その人のエッセンスを聞き出したい。それが私自身にどう響くのかが知りたい。

 

結局は心だから。どう生きるか、どう在るかを決めるのは全て心でしかなくて。

 

私はどう頑張っても考えないことはできないことに最近気づいた。前から気づいていたけど、最近はもう諦めて受け入れることにした。だけど、堂々巡りのつまらない思考をすることはやめた。視野が狭いことを自覚して、多角的な視点を持つようにすること。そしてそれをひけらかさないこと。

 

ほかの人は、考えなくてもそつなくこなせることが私にはできない。それはわかってる。他人よりも心が劣っているから、それをわかった上で考えて動く。

 

言葉は凶器だから慎重に使うこと。強い言葉ばかり使って、つけあがらないこと。他人のことばかり気にするのは自分のことに集中できていない時だからとにかく、やるべきことをやること。リアルで生きること。表現を磨くこと。言語化スキルを磨くこと。身だしなみを整えて心を豊かにすること。

 

ああ、綺麗に生きたいができないだろう。でも、泥臭くとも死ぬ時に人生に後悔ない死に方ができますように。どうか。どうか。私よ忘れないで。

2023.08.29

どす黒い感情を持たずに、自分の好きだけを貫ける恋愛があればいいのにね。

 

今の私では他者を介入させた時に自分の気持ちがままならなくなってしまう。その時点でおそらくだめなのかもしれない。だめなりに何かエッセンスを掴もうとしてるのかもしれない。どす黒い感情は私によって生まれているのだから、私が何か考えを新しく得ることにより、変わるのかもしれない。

 

そんなことばかりぐるぐる考えて、恋愛の甘い部分を堪能しては、このままでもいいかと思ってしまう。

 

でも、本当はただ純粋な好きだけで成り立つ恋愛がしたい。できるような自分になりたいよ。

2023.08.15

生活のなかのひかり を掬い上げられるひとになりたい。

 

くどうれいんさんのエッセイを読んでからそう思うようになった。歌人であるからか、食や暮らしの身近なうつくしさを書かれていてはっとした。

 

べつに常にていねいな暮らしをしろなんて言ってるんじゃない。だけど、もっと暮らしに目を向けてもいいんじゃないかという気づきをくれた。毎日のことならつまらなかったり、好きじゃないことをするより、わくわくしながらできる方がいい。それを可能にする感性は常に持っていたい。

2023.06.27

左顔面が動かなくなった。それは昨年の年末だった。珍しい病気ではないらしいし、2月中頃には動くようになった。

 

最近瞬きをすると一緒に口角がピクピク動くようになった。口を動かすと今度は上瞼の筋肉が収縮する。頰もなんだか強張った感じがする。

 

鏡を見るとうまく笑えているので安心するが違和感がとてもある。他人から見てもそれほど気づかないことなのかもしれないけど。

 

たっけてー

 

自分の心はそんなに傷ついてないと思っているけど騙し騙しやっているだけで、本当はずたずたになってるのかな?

 

ひとりでもだいじょうぶ

 

そのサインが現れているのかな。これからもこの強張りと一生付き合っていかなきゃいけないのかな。どうにかなるさっておもってるけど。他の重病の方に比べたらこんなことたいしたことないさ。

 

でもやっぱり だれか たっけてー