回顧録

考えごと感じたことひとりごと

1月5日

一昨年の暮れから、自分にとって過不足のない暮らしができることが奇跡だと思い、いつまでもこうあれるようにというのが目標であった。誰かに期待するわけでもなく、淡々と落ち着いて日々を過ごせる幸せ。多くを求めることはなかった。

 

昨年の暮れに初めて恋人ができた。もともと表面的な人付き合い(友人関係は別として、だが、長年の付き合いでもライトな気がする)しかしてこなかった私にとって青天の霹靂とも言えよう。毎日穏やかに過ごしていた日々からは一転、気を揉むことも多い。だいたいそれは私の性質によるもので杞憂なのだが。これほどまでに私の感情のダイナミクスレンジは広かったのかと思うほど、嬉しい、悲しい、寂しい、愛しい、などなど次から次に出てくる。それは一時前の私が理想とする生活とは少し離れている。でもこの日々が愛おしくて大事でたまらない。

 

相手に対しての信頼と期待とが入り混じる気持ちに折り合いがなかなかつかない時もある。もっと自分はうまくやれると思った、ということが最近は多い。恋人を大事にしたい気持ちと自分の気持ちと。大事にしようと思いつつ知らず知らずに傷つけていることもあるかもしれない。また、何を伝えて何を言わないべきか。たくさんの時間を過ごして、多くの対話をしないと人を理解することは不可能だ。そもそも理解することなんて一生無理かもしれない。それでもわかろうとすることに意味があるのだと思う。

 

(ふと反省したことだが、会話の中であの人は〜な人だから、なんて軽率なことを今までは言っていたことが多いような気がする。知れば知るほど人の内面は多重層を成していて簡素な言葉で表すことができなくなる。アイデンティティと同じように、これといった性質一つで成り立っているわけではなくたくさんの要素が大なり小なり程度はあるだろうが絡み合って「その人」ができているのだろう。)

 

一人の方が孤独を感じない、一人が好きだと思っていたわたしは寂しさを常に抱えていたのだった。満ち足りていると思っていたのは嘘だった。感覚を共にする人がいない空虚感があった。一緒にいても孤独ではない人とは出逢えないと諦めていた。今のわたしは満たされてしまいとても弱い。どこかに捨ててきたはずの感情も蘇る。おそらく一つ一つに向き合って消化しなければいけないのだろう。3年越しの感情のツケを精算する時が来たのだ。のんびり、焦らず、穏やかに向き合っていこう。急激な変化に身体はついていかないから、少しずつ。